memory-2021のブログ

寄り道脱線系ブログです。

投稿が消えた

久しぶりに投稿したのに半日過ぎて見てみたらアップされてない。

どこに行ったのか?何が起こったのか?

今日は今から書き直す余力がない。

またにします。ガッカリ。

桜咲く

昔高校生の頃お友達の医大志望のお兄さんが東北地方の県立医大を受験して、合格を知らせくれる電報を頼んだら来た電報が「みちのくの雪深し」だったと聞いた事がありました。

「桜咲く」は電報定番の合格言葉でした。

電報と言うのも今となるとレトロで今は有り得ないでしょうが、この季節になるといつも思い出します。


お茶を習って今年で10年になります。

最初京都で習い始めて、東京に戻ってから教えてくれる先生を探してまた習い始めました。

早め早めに沢山教えて下さる先生であれよあれよとお茶名まで頂いてしまいました。

が、まだ実力はそこまでいってないのですが、一通りは分かるようになった今次に考える事はいつが辞め時かなと考えています。

年金暮らしなので何かと物入りな世界には中々安住出来ないなと思い始めてます。

しかし辞めてしまうとこれからどうやってお茶と関わっていけるのかな?

本当は違うんですよね、お茶とは自分の気持ちの関わり方の問題なんですよね。

今年はそんな事を考える一年になりそうです。

三日見ぬ間の桜かな、の言う通り桜が満開の東京です。

東京ミッドタウン六本木の桜です。





蹲に椿の花を入れて花手水に飾ってみました。

10年前の事

あの悪夢のような震災から10年が過ぎました。

その前年末に京都での仕事を決め単身引っ越した夫と話し合いやはり家族は一緒に暮らそうと、私も犬二匹を連れて京都に移住する事にしたのです。息子は別に暮らしてましたし、娘は春には渡米する予定でいました。

問題は私のいわきにある実家でした。

その頃福島原発が水素爆発を起こす起こさないで騒いでいた時弟は母を私に頼むと言って来ました。弟は自分達はいわきに残るつもりだからと。

今思うとこの時は弟とは本当に今生の別れになるやも知れないと泣きました。

尤もいわきがそのように大変な事になるなら東京も危ない事になりかねなかったはずでしたがあの時は何が真実なのか予測出来なさがありました。

結局娘が母を京都に連れて来てくれ母と京都で暮らす事になりました。

それから母と暮らした2ヶ月近い日々は私が進学で家を離れて40年以上経っていましたから願ってもない事で有り難かったです。

少しは親孝行の真似が出来たかも知れません。

いわき市の場合は帰宅困難区域ではないので4月も半ば過ぎると母には望郷の思いが出て来たようで、春の京都の桜や都踊りを楽しんで連休前に私達と一緒に一旦東京に戻りました。

母はその日は東京の私達の家に泊まり翌日いわきに帰りました。

母にはありがとう、ありがとうと何度もお礼を言われました。

それでもまだ親孝行し尽くせなさを思っています。お母さんって傍にいるだけでいいものです。


卜半椿。

昨年は自粛生活が続く間にネット通販で色々買いました。この椿はその時買ったもの、今年も咲いてくれました。可愛い💕